「からだを感じてください」と言われたとき、あなたの意識は内に向かっていますか?外に向かっていますか?
ボディーワークでは、からだをギリシャ語のsoma(ソーマ)という言葉で表現することがありますが、これは「内的感覚からとらえた一人称のからだ」という意味です。からだの中の固有感覚からの情報で、自分を内から観察している状態。
いっぽう「三人称のからだ」とは、外側から客観的にとらえたからだ。第三者の視点で見たからだ。英語のI(一人称)、He/She/They(三人称)を思い出すと違いが分かりやすいと思うのですが、感じる軸が自分にあるのか、他人にあるのか、といってもいいかもしれません。
からだを感じようとしたときに、誰かの目線になって感じていることはありませんか?もしくは自分はどんなふうに見られているだろうというところに強く意識がおかれていませんか?
たとえばこんなやりとり。
「今立っていて、どんな感じがしますか?」
「猫背だと思うんです」
「どうしてそう思うんですか?」
「前にそういわれたことがあって」
これは自分が感じていることではなく、人が自分をどう見たかを思い出しているだけで、感覚ではなく思考を使っている状態。
ではもうひとつ
「今立っていて、どんな感じがしますか?」
「猫背だと思うんです」
「どうしてそう思うんですか?」
「胸の前が縮まっていて、ギュッとした感じがするんです」
これは自分の感覚を使って、猫背という言葉が導き出された状態。ちなみに・・・クライアントさんが一人称で感じているのか、三人称で思考しているのかは、目や雰囲気でだいたいわかります。
感じる、ということに改めて向かい合うとき、慣れていないと一人称の目線に意識を移すのはものすごく難しいと思います。これが苦痛でボディーワークから離れてしまう人もいるかもしれない・・・なんとかこのハードルを「苦行」ではなく「面白い、チャレンジする価値があること」と思ってもらいたいのだけれども、言葉がけって難しいなぁと日々試行錯誤です。
– – – –
「私のからだは歪んでいますか?」
「一般の人と比べて私のからだはどうですか?」
「私のからだはわるいところがありますか?」
という質問をされることもときどきありますが、こういうのもみんな三人称。とくに歪みを気にされる方の場合は、過去に歪みを指摘された経験のある方が多いです。でもそのときたまたまその人はそういうふうに思っただけのことであって、真実かどうかは分からないし、たとえそのときは真実だったかもしれなくても、今もまだ継続しているかどうかは分からない。
人の目線で自分のからだを観てばかりいると、何が正解か分からないし、第三者の言葉に振り回されてしまっていつまでも落ち着くことはできません。逆に内的世界が充実してくると、人がどう見てるかはあんまりどうでもよくなってくる・・・。自分軸/他人軸というのは決して思考の世界だけのはなしではなくて、むしろ身体感覚の世界から発生しているものなのだと思っています。
追記:
こう書くと、一人称=いいもの、三人称=悪いもの、みたいに思われるかもしれませんがそんなことはありません。自分以外の他人がどう考えているかを推測する高度な思考力は、人間を人間たらしめているものでもあります。大事なのはバランス。そしてどちらも行き来できる柔軟性であります。