見ることへの執着

メガネをなくしてしまいました。

この間のワークショップ中、会場についてメガネケースを開けたら中身がはいってなくて。きっと家に置いてきたんだろうと思ってたら、家にもなくて。

そのうち出てくるかもと、今は古いメガネを使ってます。そしたらこっちも、ねじが緩んでたのに気が付かなくて、道を歩いているときに、柄が外れるというアクシデントにみまわれる・・・なんだかメガネ運がいまいち?(近所のメガネ屋さんで100円直してもらえましたが)

でも最近、前ほど「見る」ことへの執着がへったなぁと感じています。前にブログでも書いたけど、メガネをかけてないとき、無意識に「見えてない、見なくては」と緊張していたのが、「見えてないけど、まあいっか」くらいの緩さでいられてる。

自分の中の「見なくては」という衝動を意識的に手放した、というのもあるかもしれないけれど、どちらかというと視覚以外の感覚が豊かになったことが大きいと思っています。視覚以外というのは、体性感覚。つまりからだがどういう状態で、どんなふうに動いているか、という感覚。

目から入ってくる情報とともに、このからだの感覚をつかって私たちはバランスをとっています。例えば、目で足元を見なくても、足裏のセンサーで地面の凹凸を感知できるし、足腰がちゃんとグラウンディングしているという安定感があることで、首や頭はリラックスして目も楽に使うことができます。

見よう見ようという執着は視野を狭めますが、0.1無くても「大丈夫、見えてるし」とリラックスしてれば周辺視野が広くなるので、まっすぐ前を向いていてもなんとなく足元が見える。(逆に視野が狭くなると、足元を確認しようとして顔が下を向いていく。)

あと、足腰に安定感を感じていると、必要以上に不安になるのを防いでくれます。

人が見つけられない、
行き先が見えない、
カフェでメニューが見えない、
探してるものが見つからない、

などなど、

見えてないといろんな不安があるわけですが、どれもこれも慌てなければ実際大したことではなかったりする・・・(急いでるときは別ですが)。

人に見つけてもらえばいい、
看板のすぐそばまで近づけばいい(人に聞いたっていい)、
メニューもレジのところでじっくり見ればいい、
時間を掛ければメガネなしでも買い物できる・・・

そんなふうに思えると、あれっ、なんであんなに見えないことが怖かったんだろう?ってなってくる。

そうするともはや、視力がいいとか悪いとかの次元ではなくなってきて、ひょっとするとこの次元を超えたところに、視力回復への道があるのでは・・・なんて思ったりしています。(まだ執着している(笑))

 

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